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自分史


by mypath

チキン肌

小学校2年か3年の時、同級生にM君という子がいました。

別段話した事も無いのに、ある日突然話しかけてきました。

以来、頻繁に話しかけてくるようになりました。

別段その子と仲良くなりたいわけじゃなかったから、面倒で嬉しくなかったのでした。


ある日、お母さんがこんな事を言ってきた。

「さっきM君のお母さんと会ったのよ~。M君、あなたのこと可愛いって言ってたらしいわよ。」


この言葉がとどめだった。

わたしはM君に嫌悪感を感じてしまったんです。

興味もない、好きでもない人から、一方的に好意というものを抱かれることが、子供ながらに気持ち悪かったのです。

ある寒い日のこと。

半袖を着ていたわたしは、寒くて鳥肌がたっていました。

M君はすかさず、「ね、鳥肌たってるよ。寒いの?」


これという理由はないけれど、とにかく話しかけてもらいたくなかった私。

M君を遠ざけていたので、その一言に反応した。

「ううん。 これ、チキン肌。」


なんでそんな意味不明なことを言ったのか、今でもわからない。

ただ、M君がやたらと話しかけてくるのがいやだったのです。

M君が言った言葉と同じ言葉を使いたくないという心理が働いたのでした。


小学2・3年生だったのに、そんな子供だったのに、好きじゃない人から寄せられる好意が嫌だという気持ちを立派に抱いていたのです。

今大人になって思うことですが、3つ後の魂は100歳までとよくいったもので、そういうことはその後も変わらず同じでした。

興味も無い、関心も無い、好きじゃない人からのアプローチに嫌悪感を感じるという。


無意識に、面倒なことをしたくない、気を使って話したくない、話したくないのに我慢して話すのがいや、関わりたくない、そういうのがあったのかもしれません。

ただ、こう思っていたのです。

ほっといてほしい。 

こういう一面は、その後も、M君と同じような事をした人すべてに抱く事になった感情なのでした。

何も思っていない人からの恋愛感情は、わたしには精神的ストレスだったのです。

そういう意味で、わたしは潔癖な面があるのだろうなと思います。
# by mypath | 2009-06-11 18:18 | 小学校

ちんちん

ソウルで一番最初に住んでいた家の、通りを挟んだ向いに、2人の男の子が住んでいました。

わたしが4・5歳位の頃のことです。

その2人の男の子は兄弟で、お兄さんはかなり大きかったと思います。

近所にはいっぱい小さな子供達がいましたが、一緒に遊んだ気憶はありません。

遊んだかもしれないけれど、そんなに遊んでいなかったんじゃないかと思います。

きっと、理由は言葉です。

生まれたときから家庭内は日本語だったので、韓国語が話せない。

それに、ハーフなんだけど日本人だと見なされていたから、一緒に遊んでくれなかったのかもしれない。

家の前のその2人の男の子だけは別で、私と弟が日本人(本当はハーフだけど)と知って、いつも興味津々なようでした。

だから、よく声をかけられていました。

でも、何を言ってるのか、さっぱり解らない。


ある日、お兄さんの方が、私と弟に、こういいました。

「アニョハセヨ(こんにちは)~~イルボン(日本)~~~?」

最初は何を言ってるのか解らなくて考えてしまったんですが、何となく、韓国語のこんにちはは、日本語で何ていうの?と質問されているのだと気づきました。

4・5歳にしては、見事な推理力(笑)

弟が、「ね、何て言ってんの?」と聞いてきたので、「日本語でこんにちは、は、何ていうのか聞いてるみたい」と答えました。

すると!

弟は何を思ったのか、「ちんち~ん!」 と言ってしまったのです(笑)

今思えば、最悪の言葉を教えてしまったものだと思います。

弟は、なぜかおちんちんを触る癖があって、「ちんち~ん」が口癖でした(笑)


「なんでそんな嘘おしえんの!」 って弟にその場でしかったら、弟は「だって、い~じゃん!アッチは意味がわかんないんだから!」って言ったんです。

今思えば、生意気な弟でした(苦笑)

「ちんち~ん!」と教えられたその韓国人のお兄さん。

さっそく大声で「ちんち~ん!」と私たちに言うわけです。

これが、記念すべき、気憶に残っている最初の「国際交流」でした(苦笑)


ところが。

その数日後、お母さんに質問されました。

「向かいの子が、わたしを見るたびにちんちんって挨拶するけど、あれ、どうして。」

ちょっと怒ってました。

だから、説明しました。

そしたら、お母さんにものすんご~い、怒られた。

「なんてこと教えんの!」 と。


わたしのせいじゃないよ~、弟が悪いんだよ~・・と子供ながらにうなだれました。


その後、そのお兄さんがその言葉をそのまま使っているかは知りません。

私たち家族はソウル市内の他の場所へ引っ越したからです。

でも、そのお兄さんが今でも「ちんち~ん!」と言っていたら、それは「弟」のせいです。
# by mypath | 2009-06-11 14:35 | ソウル

お母さんと勉強

かすかに残っている気憶の断片に、お母さんといっつも午後になると勉強していた気憶が1つ残っています。

何を勉強していたか覚えていませんが、えんぴつを持って、ノートに何かを書いている気憶です。

3歳頃の話です。

きっと、ひらがなを練習していたのかもしれません。

その気憶の中で、鮮明に残っている映像があります。

ノートに何かを書いて練習している私の横に座っているお母さん。

お母さんと私はとっても楽しそうに勉強しています。

きっと、お母さんは勉強を教えるのが上手かったのかも知れない。

勉強が楽しいと思わせてくれた最初は、間違いなくこのときだったと思います。

わたしが楽しかった理由も2つ、はっきり覚えています。

1つは、お母さんと一緒に話しながら何かをするのが楽しかったから。

2つ目は、勉強を達成すると、毎日ノートに可愛いシールを貼ってくれたからです。

そのシールがもらえるのがとっても嬉しかった。

そんなちっちゃい私が居ました。
# by mypath | 2009-06-11 14:22 | 保育園前

まあるい水筒

小学生の中学年位まで、お母さんが1つ、よく褒めてくれた事がありました。

それは、まあるい水筒に、ひらがなで私が書いた自分の名前でした。

お母さんは、その水筒を大事にしていて、事あるごとに、3歳の時の私の、その出来事を話して聞かせませした。

とても嬉しそうに話すお母さんが、印象にとても残っている。

その水筒に自分の名前を私が書いたのが、3歳の時だったそうです。

気憶にないのですが、確かに下手な字ですが、大きく自分の名前を水筒にひらがなで書いてありました。

3歳と言えば、まだちっちゃい。

小学生ながら、3歳でひらがなが書けたんだと、自分のことながら意外でした。

物心ついた時から、お母さんといつも勉強していた気憶が残っています。

きっと、その成果が出たからなのかもしれませんし、または、最初にわたしの名前をお母さんがひらがなで書けるように教えたからなのかもしれません。
# by mypath | 2009-06-11 14:17 | 保育園前

お米

とっても小さい時、確か3歳頃、住んでいた最初の家で、ある思い出があります。

ソウルでの事です。

お母さんは、いつも中庭に面した縁側に座って、ボールに入れたお米の中をごそごそとまさぐっていました。

「何してるの?」

「米虫を探してるんだよ。」

米虫という言葉を初めて聞いた最初でした。


わたしが最初にソウルに居た1975年から1980年頃、当時の韓国で売られているお米には、小さな黒い虫が時々いました。

なぜそんな事になるのか、今でもよく解りませんが、韓国は貧しい国だったので、精米技術や製品管理が行き届いていなかったのかもしれません。

お母さんは、ボールの中のお米をすくってはまさぐりながら、こう話し聞かせてくれました。

「昔の日本もこうだったんだよ。おばあちゃん(お母さんのお母さん)がよく言ってたよ。お米を研ぐ前に、米虫を取り出さないとって。面倒だねぇ。今の日本じゃ(1975年頃)じゃ、考えられない。」

子供ながら、とっても印象的な話でした。

子供ながら、日本の方が進んでいるということを薄々感じました。

でも、子供にとって、そんなのはどうでもいいのです。

私はただ、お母さんがそうやってお米すくっては米虫を探す作業をながめているのが、好きでした。

お米って、すくってパラパラと手のひらからこぼすと、お米の匂いがかすかにするんです。

そんなお米の匂いが好きでした。

そして、韓国のお米も、日本のお米とまけず劣らず、美味しかった。
# by mypath | 2009-06-11 12:14 | ソウル